あの日のことは今でも嘘だと思っている
数日前、妹がTwitterにこう書き込んだ。
「その日から、私、今までがうそものだとおもっているからね。心のどこかで。」
思い出の詰まった中学校は波に飲まれ、買ってもらったばかりのケータイも水に流される。
9年前の私たち姉妹は、そんなこと全く思わずに過ごしていた。
私は買ってもらったケータイを枕元に置いて寝た。
2011年3月11日、私は中学3年生だった。
明日は卒業式だからって、クラスメイトと一緒に教室を綺麗にしていた。
黒板クリーナーが調子悪いからって、黒板消しを叩いてたら突然、地響き、激しい揺れが私とクラスメイトを襲った。
先生や友達と、指定された避難所に逃げた。
「だめだ!ここにも水がくる!」
と誰かが叫んだので、クモの巣なんて気にしないで木や草を掻き分け、さらに山の上に登った。
この山の頂上に登ったの初めてだな…なんて思いながら、私は海を見ていた。
友達が何人か泣いていた。
大地震だからと、親が迎えにきてくれた友達を心配している声も聞こえた。私は泣かなかった。
「姉ちゃん」
声をかけられ、見ると、小6の妹が飼い犬のクロを抱えて、泣きそうになりながら立っていた。
中1の妹も無事だと、先生から聞いた。
小6の妹は家で一人でいたところに、地震がやってきた。急いで、鞄にクロの餌を入れて、水を持って、必死で山に登ってきた。
そんな彼女と海を見ていたら、海水が何かに引っ張られ、海の底が見えたその直後、思ったよりも穏やかに、波は町に入ってきた。
「津波だ!!」
一緒に見てた近所のばーちゃんが言った。
「あんだだち、今下さ降りだらダメだ。今日は、どっかさ泊まらい」
山からは降りられないということで、私とクラスメイトと妹とクロと先生は、山の上の民家に泊まることになった。
その日は不安と寂しさで、胸が押しつぶされそうだった。ずっとお腹が痛くて、嫌な予感しか頭をよぎらなかった。
深夜、泊まっていた民家に父親がやってきた。
私と妹たちは、いつぶりかわからないけど、ワンワン泣いた。
「ばあちゃんも無事だ。今日は、市役所さ、泊まってっがら」
私の家族は全員無事だった。
次の日、私たち家族は家の様子を見るために山を降りた。
海は元どおりだった。
それからの日々はあまり覚えていない。ただ毎日生きるのに必死で、お風呂3日間入らなかったことも、全然平気だった。
山の上の親戚の家に泊まった。私のばあちゃん、親戚のおばちゃん、おじちゃん、お母さん、お父さん、妹たち3人とで暮らした。それもうるさくてすぐに追い出されたけど。
私たち姉妹は、自宅を片付けながら、遊んでいた。
電気も水道もなくて、自衛隊や給水車にお世話になった。3時頃になると水をもらいに、タンクを持って給水車まで行った。
電気がついた時は、感動して、当時好きだった男の子に「電気ついたよ!」ってメールした。
朝起きたら、おばあちゃんの家でご飯を食べて、日が暮れるまで片付けしたり遊んだりして、日が暮れたら、蝋燭(それも葬儀場で働いてる知り合いからもらった大きい蝋燭!笑)を灯して、寝る毎日だった。
必死だった。必死に生きた。
震災で生き残っても、その後の辛さに耐えられず命を落とす人もいた。
それでも私たちは、必死に生きた。
震災は私たちに良いものも悪いものも残してくれた。
お母さんと妹たちは、震災ボランティアでの繋がりを。私には、楽しい高校生活を。
そして私とお母さんはPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しめられた。お互い、今もずっと、戦っている。
9年経っても、震災の次の日のように、海は穏やかだ。海を囲む景色がまるで変わっても。
大好きだった町を飲み込んだ海なのに、私は帰省のたびに写真を撮らずにはいられない。大好きな海なのだ。
明日もきっと海は穏やかだ。
本当は今までのことは全部夢で、起きたら、私は中3の卒業式で、町は綺麗なままで、そんなこと今でも思う。
きっと、いつまでも思う。