雨はずっと降り続いている

日記と備忘録。

私は毒親と思うことをやめた

 

毒親という言葉を知った時、私の母親のことだと思った。

 

中学校教師の母親は完璧を求める人だった。

 

まず、お母さん自身がすごい。

容姿端麗、頭脳明晰、文武両道。そんな人だったらしい。おばあちゃんが言っていた。

生徒から評判の良い先生だったそうで、母親を慕う教え子もたくさんいる。

 

家での母親は、家族の誰かを常に虐めていた。

「死にたい」「私が死ねばいいんだろ」

「あんたたちなんか産むんじゃなかった」

「お金がない」

そして何度もこの言葉を言っていた。

 

何年間も私たち姉妹と父親はこの言葉を浴びせられた。

長女の私はその度に歯向かい、次女は母親の言葉をシャットアウトし、三女だけは母親と関係がよく、四女は心を壊した。父親は、間に挟まれ、母親も私たちのことも守ってくれた。

 

教育学部だった私は、子どもにおける母親の重要性や、毒親という言葉は知っていた。

 

私が不安障害になった時、お母さんのせいだと思った。

 

私と同じで震災のPTSDの母親は、私とは違った。私は震災関連の情報を避けた。母親は、まるで、震災を乗り越えた人や震災から復興していく様が美しいものであるかのように、震災の情報を集めていた。見たくもなかった。

 

私たち、どちらも「不安」なのだ。

 

2.3年前、父親から、

「次女は、お母さんと距離を取ることに決めたようだよ。『毒になる親』という本を読んだみたいだ」

と言われた。心底悲しそうだった。

 

ああ、次女はそう決めたんだ。

私もそうしようと思った。

 

三女は、

「仲悪いよりも、仲良い方が楽しいじゃん?」

と母親と仲良くしていた。

私もそうしようと思った。

 

四女は、母親の話を徹底的に無視していた。

私もそうしようと思った。

 

でも、できなかった。

本当はずっとお母さんに認められたかった。お母さんを嫌いになることはできなかった。

 

お母さんが鬱やPTSDと闘いながら、吐いてでも仕事に行っていたのも知っていた。吐いてる音が聞こえていた。お母さんが辛かったのも知っていた。私たちのこと、育てるために必死なのも知っていた。

 

18歳の私は、お母さんに変わって欲しかった。

20歳の私は、自分の病気を母親のせいにした。

22歳の私は、彼氏の母親の優しさに依存した。

24歳の私は、母親を受け入れることにした。

 

お母さんはこれからも変わらないだろう。

私とお母さんは、これからもぶつかるだろう。毒親なのかもしれない。

 

それでも私は、お母さんを受け入れ、毒親と思うことをやめた。

 

 

あの日のことは今でも嘘だと思っている

数日前、妹がTwitterにこう書き込んだ。

「その日から、私、今までがうそものだとおもっているからね。心のどこかで。」

9年前の明日、私は大地震に遭う。大津波に遭う。

思い出の詰まった中学校は波に飲まれ、買ってもらったばかりのケータイも水に流される。

9年前の私たち姉妹は、そんなこと全く思わずに過ごしていた。

私は買ってもらったケータイを枕元に置いて寝た。

2011年3月11日、私は中学3年生だった。

明日は卒業式だからって、クラスメイトと一緒に教室を綺麗にしていた。

黒板クリーナーが調子悪いからって、黒板消しを叩いてたら突然、地響き、激しい揺れが私とクラスメイトを襲った。

先生や友達と、指定された避難所に逃げた。

「だめだ!ここにも水がくる!」

と誰かが叫んだので、クモの巣なんて気にしないで木や草を掻き分け、さらに山の上に登った。

この山の頂上に登ったの初めてだな…なんて思いながら、私は海を見ていた。

友達が何人か泣いていた。

地震だからと、親が迎えにきてくれた友達を心配している声も聞こえた。私は泣かなかった。

「姉ちゃん」

声をかけられ、見ると、小6の妹が飼い犬のクロを抱えて、泣きそうになりながら立っていた。

中1の妹も無事だと、先生から聞いた。

小6の妹は家で一人でいたところに、地震がやってきた。急いで、鞄にクロの餌を入れて、水を持って、必死で山に登ってきた。

そんな彼女と海を見ていたら、海水が何かに引っ張られ、海の底が見えたその直後、思ったよりも穏やかに、波は町に入ってきた。

津波だ!!」

一緒に見てた近所のばーちゃんが言った。

「あんだだち、今下さ降りだらダメだ。今日は、どっかさ泊まらい」

山からは降りられないということで、私とクラスメイトと妹とクロと先生は、山の上の民家に泊まることになった。

その日は不安と寂しさで、胸が押しつぶされそうだった。ずっとお腹が痛くて、嫌な予感しか頭をよぎらなかった。

深夜、泊まっていた民家に父親がやってきた。

私と妹たちは、いつぶりかわからないけど、ワンワン泣いた。

「ばあちゃんも無事だ。今日は、市役所さ、泊まってっがら」

私の家族は全員無事だった。

次の日、私たち家族は家の様子を見るために山を降りた。

海は元どおりだった。

それからの日々はあまり覚えていない。ただ毎日生きるのに必死で、お風呂3日間入らなかったことも、全然平気だった。

山の上の親戚の家に泊まった。私のばあちゃん、親戚のおばちゃん、おじちゃん、お母さん、お父さん、妹たち3人とで暮らした。それもうるさくてすぐに追い出されたけど。

私たち姉妹は、自宅を片付けながら、遊んでいた。

電気も水道もなくて、自衛隊給水車にお世話になった。3時頃になると水をもらいに、タンクを持って給水車まで行った。

電気がついた時は、感動して、当時好きだった男の子に「電気ついたよ!」ってメールした。

朝起きたら、おばあちゃんの家でご飯を食べて、日が暮れるまで片付けしたり遊んだりして、日が暮れたら、蝋燭(それも葬儀場で働いてる知り合いからもらった大きい蝋燭!笑)を灯して、寝る毎日だった。

必死だった。必死に生きた。

震災で生き残っても、その後の辛さに耐えられず命を落とす人もいた。

それでも私たちは、必死に生きた。

震災は私たちに良いものも悪いものも残してくれた。

お母さんと妹たちは、震災ボランティアでの繋がりを。私には、楽しい高校生活を。

そして私とお母さんはPTSD心的外傷後ストレス障害)に苦しめられた。お互い、今もずっと、戦っている。

9年経っても、震災の次の日のように、海は穏やかだ。海を囲む景色がまるで変わっても。

大好きだった町を飲み込んだ海なのに、私は帰省のたびに写真を撮らずにはいられない。大好きな海なのだ。

明日もきっと海は穏やかだ。

本当は今までのことは全部夢で、起きたら、私は中3の卒業式で、町は綺麗なままで、そんなこと今でも思う。

きっと、いつまでも思う。

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