雨はずっと降り続いている

日記と備忘録。

目を閉じてはいけない

 

今年も、この日がやってきた、3.11。

 

もう10年前のことで、私の目の前にいるこの子たちは、生まれる前のことだという事実に驚かされる。

 

毎年、必ず3.11の話をして、子どもたち黙祷する。なぜ黙祷をするのか、どんなことがあったのか伝え、黙祷をするのだ。

 

でも私は、10年間、一度も黙祷ができたことはなかった。

 

目を閉じてはいけない気がするのだ。

 

 

10年前、初めて津波を体験して、何もわからなくて、ただ怖くて目をつぶった。

 

目を開けたら、流されていく家、流れていく木材で埋め尽くされ、もはや茶色のような黒のような波。

見えなかったけど、あの中に人もいるだろうということは容易に想像できた。

 

 

 

 

私の中学校では、憧れている先輩の名札をもらうのが卒業式後の恒例行事だった。

私も、なかなか部活に馴染めなかった頃、優しく話しかけてくれた先輩の名札をもらった。それは、自宅の机の中に大事にしまってあった。

 

そのS先輩のことを、あの波は攫っていってしまった。

私の中では、それは、10年たった今でも信じられていない。

S先輩が亡くなったというのは、誤った情報で、今はどこかで働いていると信じている自分がいるのだ。

 

 

 

3月なのに雪の降ったあの日、どんよりと重い曇りだったあの日。

 

目を閉じずに、現実を両目で見ればよかった。

 

 

あの先輩も、生きていて欲しかった。

 

 

お祭り練習でとびきりお茶目だったブティックのおばちゃんも高台に逃げて欲しかった。

 

 

ガソリンスタンドのお姉さんも、すぐ上の山に登って欲しかった。

 

 

津波なんて来ないで欲しかった。

 

 

 

 

 

黙祷もできず、震災関連の情報をシャットアウトしている私は、何か欠落しているのか。

 

 

「震災を風化させない」

なんて綺麗事だと思う。

 

もちろん、

未曾有の災害が起こり、たくさんの被害を受けた人たちがいるという事実は忘れてはいけない。

 

でも、

私が震災を忘れたいと願う気持ちは、悪いことなのだろうか。

 

何年経っても思うのは、

海は今日も綺麗で、穏やかだということだけだ。

 

3月11日、

実家を出てからはたった一度も、この日に岩手へ帰ったことはない。

 

私はいつか忘れて、前を向いて進むのだ。

 

 

そんな日が来ることと、地元大船渡市の復興を願っている。

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妹の卒業制作です。

たくさんの人にご覧になっていただけると嬉しいです。

 

https://kano-lab.org/students/research311/

 

私が昨年書いたブログです。

ここに出てくる妹が、上記のサイトを作りました。

 

https://katoupan.hatenablog.com/entry/2020/03/10/215551

目の前にいつもあるのは大量の精神薬

 

突然重い話をする。

希死念慮を持ちながら生きる勇気はあるか?

 

毎日、生活を送りながら、

「死んでしまいたい」という気持ちも持ち続ける。

 

思えば私は、10年以上、希死念慮を持ち続けながら生きている。

 

初めて「いつか死んでしまうんだな」と思ったのは、15歳の時だ。目の前には、町を飲み込む津波があった。自分が生きている、という実感が湧かなかった。

 

16〜18歳は「私なんて死んだほうが良いのではないか」と思いながら生きた。震災のPTSDとおそらくそこで発症していたパニック障害。辛かった、家族にも迷惑をかけた。でも、寝ても毎日朝が来て、泣きながら学校に行った。この辛さがいつ終わるのか分からなくて消えたくなっていた。

 

大学生の頃、不安障害を発症した。

毎日寝るのが怖かった。朝起きたら病気になっているかもしれない。死んでいるかもしれない。だったらいっそのこと、寝る前に死にたい。目の前には、たくさんの精神薬があった。私の心の支えは、「いつでもこの薬たちで死ぬことができる」ということだけだった。

一度も死のうとしたことはなかった。

 

23歳の頃、結婚の話まで出ていた彼氏にふられた。その人と穏やかな家庭を築くだろうと思って疑わなかった私は、全ての日常が崩れた。と同時に仕事も忙しくなった。緩やかに死のうとしていた。一日中、水も飲まず、何も食べず、電気もつけず、仕事も行かず。でも、緩やかに死ぬことはしんどかった。結果的に、薬が増えて、実家に戻ってきた。その時の心の支えは、「私が死んでも家族の誰かが見つけてくれる」だった。

 

24歳の頃、私は1番ぐちゃぐちゃだった。

仕事も大変だった。好きな人にもふられた。言えないようなしんどいこともあった。私の目の前には、やはり大量の精神薬があった。そして、貯金を全くしていなかった。いつ死んでも良いという覚悟だった。大量の精神薬を、毎日きちんと分量を守りながら飲んで、「私はいつでも死ねるからね」と。言い聞かせながら生きた。

 

25歳の今。コロナウイルスが流行り、家族や大好きな人たちにもなかなか会えなくなった。私は、死が近づいてる気がしている。ずっと、一定の距離を保っていた「死」。それが隣り合わせになってきたのだ。

 

 

私と希死念慮はいつになったら離れるのだろう。私には希死念慮はあるが、死ぬ勇気はない。「消えたい消えたい」と思い続けながらも、これから生きていく。

 

もしかしたらいつか、私にも「生きていこう」と思うことがあるかもしれない。それがいつかわからない。

いつか「生きよう」と思うために生きている。

 

別に生きたいわけではないけど、最近「家を買いたい」という夢ができた。貯金をするための本を買った。安全運転になった。毎日湯船に浸かるようになった。長く使える上質なものを少し買うようになった。いらないものは捨てた。

 

今日もまた目の前には大量の精神薬がある。

金曜日は通院日だから、また増える。

今はそれだけが心の支え。

 

 

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私ロボットだから

 

 

私ロボットだから、

 

子どもが泣いてたら優しい言葉をかけてあげる。

 

勉強を教えてあげる。

 

放課後の消毒やトイレ掃除もピカピカにするわ。

 

今までの方法では十分じゃなかったみたい。

 

また新しく覚えたから、

 

朝は6時に目が覚めるから、7時半には学校に行く。

 

学校に行ったら笑顔が張り付いて取れないわ。

 

同じ学年の先生たち、言ってることがみんな違う。

 

とても困るけど、笑うわ。

 

私ロボットだから、心がないから、

 

そんなこともやってられるわ。

 

夜涙が出てくるけれど、

 

朝は「もう行きたくない」と泣くけれど、

 

私ロボットだから、

 

学校にいるとロボットだから、

 

子どものために頑張るの。

 

最近は寝られなくなった。

 

寝なくても働けるようになった。

 

学校にいなくても、私

 

ロボットになれそうだわ。

 

どんなに辛くても笑っていられるわ。

 

そろそろ寝なくちゃいけない時間だわ。

 

ああ、

 

今日もODしなかった。

 

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25歳になりました

 

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25歳になりました。

 

ピアノの発表会以外で初めて、

お花をもらいました。

 

 

ちょうど昨日オンライン飲み会で、今年の抱負を聞かれたので、ちょっと書き出してみようと思います。

 

①3年目として後輩のフォロー&学年に貢献する

 

 2年目までは、学年団で最年少ばかりだったので、仕事も受け身でした。

また、持ち前の腰の重さと気の利かなさから、自分から何かをするってことがなかったのですが、2年間で動き方を叩き込まれました。それを少し生かせれば良いかな、と思います。

脱!仕事のできない女

 

Excelできるようになりたい

 

 実は新年度入ってすぐは、2学年分の仕事をしていて、その時にExcelに手こずったので、Excelできるようになりたいと思いました。

 というか、ググりながらExcelやってたら、Excelできる人だと思われて、「こりゃやらなあかん」と一念発起しました。

 おすすめの本あったら教えてください。

 

③10kg落としたい

 

 昨年度ストレスで食べすぎたことで、10kg太りました。軽い筋トレとヨガをして、食事も考えて、落とせたらなあ、と思います。

 

ちなみに、今、156cm、54kgです。

 

④腸活

 

 最近ハマってる腸活。私は、乳糖不耐性でヨーグルトなどはあんまり食べられないので、リンゴ酢ドリンク飲んでます。毎日飲むのが大事かなと思って、とりあえず簡単だし続けてます。

 

でも、酸っぱいんだわこれが。

 

④出来るだけお化粧する

 

 お化粧したって、落ちるんですよ。

でも、してる時としてない時では気分が違うのでしたいと思います。お化粧品がすごく好きで、確か大学時代にこの本を買ったのが引き金になって本格的にお化粧の研究を始めました。

 お化粧する為にも早起き頑張ります。

 

⑤本を読む

 

 毎日本を読んでる人ってすごいと思います。昔の私はそうだったのに、大学生の時、本当に本を読まなくなってしまいました。

 毎日、は無理だけど、本を読む日を設けて1日で1冊を読みたい。私はその方が向いてます。

 目指せ、月3冊(ハードル低い)

 

⑥早寝早起き

 

 これは薄々やらないとなと思ってました。

今は薬で眠気を煽ってるとはいえ、飲む時間を早めれば早く寝られるし早く起きられるわけです。私なりの早起きのためにも、

・zoomなどに参加する時はお風呂入ってから

(お風呂入らないで朝シャワーで仕事行く人があるんですよね。うん、やめよう)

・薬を早めの時間に飲む。

・寝る前にゲームをしない

(眠気を妨げるとかじゃなくて、熱中して、眠いのも我慢しちゃうんです。)

 

同居人が、早寝早起きだからなのか、肌はプリプリ透明感ぴっかーんってなってるのが羨ましい。

 

⑦家事をためすぎない

 

 家事が苦手とかではなくて、好きではない。でも、溜めてしまうともっと好きじゃなくなる。こまめに家事します。

 

⑧聞く力を高めたい

 

 いつも話す側になってしまっていたんですけど、最近は相談されることもちょくちょくあります。(主に恋愛系)

 話す人が何を言いたいのか、よく表情を見たり、質問をしたりして、聞きたいなと思います。

 

 

とりあえず思いつくのは8つ。

また思いついたら、足していこうと思います。

 

おわり。

25歳もよろしくお願いします。

 

 

前回書いた恋のお話、見てくれた人ありがとうございました。思い出の曲を紹介します。

 

after pills

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よかったら、聴いてみてください。

 

 

あの時熱を出していなかったら

 

 

「タララバを言っている人はいつまでも、タララバを言い続けると思う。」

 

これは、私がTwitterのフォロワーに言われた言葉だ。私の心の中にずしっと響いて、今でも自分のエンジンにしている。でもね。

言われた直後は、本当にショックだった。

 

今はもうあまり言わないようにしているタラレバ。私はどうしても、永遠に言い続けるであろうタラレバが1つある。

 

それが、

あの時熱を出していなかったら。

 

 

社会人1年目で結婚を視野に入れていた彼氏と別れた私は、とにかく仕事に明け暮れた。

 

でも2年目に入った途端、全て疲れてしまった。その時に、ある男性と出会った。

 

彼は1歳年上で同じ職業だった。

ただ臨時だということで、勉強している、と言っていた。

 

私は偉そうにも、

「私でよかったら力になるよ!」

と言っていた。

 

嬉しかった。

同じ職業の人と毎日電話して、今日はこの勉強をするとか、したとか、子どもの様子が可愛かったとか、同じ学校の先生が優しいとか、そんな話ができた。

 

 

彼はたくさん話してくれた。私もたくさん話した。

たくさん聞いてくれた。たくさん聞いた。

 

 

 

誕生日前日の深夜、日付が変わる前に私はコンビニのお菓子をたくさん買い込んで、時計を見ると0:00だった。

 

その瞬間に、彼から電話が来た。

私は咄嗟に

「なんで、私の誕生日、知ってるの?」

と意味不明な質問をしてしまった。

 

彼が電話をかけてきたのは偶然だった。

私の誕生日なんか関係なかった。でも嬉しかった。

 

その日もたくさん話して、夜初めて会うことになったのに、私は少し遅刻してしまった。

私の家の近くのおいしいパスタ屋さんに集合だった。

 

後ろ姿しか見えなかったけど、初めて顔を見たとき、私は初めての経験をした。

 

顔を見ただけで、すごくすごく好きになってしまった。

 

かっこいいわけではない、自分の好みなわけではない、背がすごく高いわけでも、ムキムキマッチョなわけでもない。

 

とても普通で声しか知らなかった人に、

 

私は一目惚れしてしまった。

 

 

自分でもびっくりするくらい気が合う。

同じ職業だから話も合う。

 

パスタを食べて、夜桜を見た帰り、

私は、告白をした。

(今でも、これはいきなりすぎたと思ってる。)

 

彼は

「かとうさんのこと知りたいから、たくさん出かけたい」

と言ってくれて、私たちは、

1週間に1度か2週間に1度会うようになった。

 

やっぱりそうやって過ごす中でも、

価値観とか食べ物とか考え方とか。違和感を感じることがなくて、どんどん好きになっていって。

 

 

私は毎回、好きと伝えていた。

付き合いたかったけど、彼はなかなか首を縦に振ってくれなかった。

それでも、彼と会えることが幸せで、久しぶりの恋が楽しくて、少し辛かった。

気持ちが通じてないのはわかっていた。

 

 

 

教員採用試験も1ヶ月前まで迫り、

私たちは会わないことにした。

終わったら会おう、と約束して。

 

 

私も学期末だしちょうどよかった。

彼の邪魔にもなりたくなかった。

 

 

教員採用試験前、

「頑張ってね。あなたなら、合格できるよ」

と送ったLINEは既読無視だった。

 

 

 

 

 

約1ヶ月後、彼の誕生日近くなったので、

私は、どきどきしながら、

「誕生日か、その近く会えない?」

と久しぶりにLINEを送った。

 

案外すぐに返ってきて、誕生日の次の日会えることになった。

私はその前日は、友達との旅行が入っていたから、旅先で友達と、明日渡すプレゼントのお菓子を選んだ。

友達は、

「喜んでくれるといいね。」

と言ってくれた。

美味しそうなクッキーを選んだ。

 

なんて言って渡そう、なんて想像しながら、帰路の私はずっとワクワクしていた。

 

 

しかし旅行から帰った日の深夜、私は39.0℃まで熱が上がってしまい、救急病院に行った。

 

明日はやっと好きな人に会えるから。

どうか熱を下げてください。

 

心の中で自分の体に何回も話しかけた。

 

点滴が終わって、時計を見ると朝4時だった。

そういえば、今日は研修も入っていた。

 

 

熱さましを飲んだけど、37.8℃だった。

今日、好きな人に会う事も研修も無理だった。

 

私は、好きな人に今日会えないことを、学校に今日の研修に行けないことを連絡し、

その日は1日泣きながら寝た。

 

 

好きな人は、

「また予定調整して会おう。」

と言ってくれた。

 

 

 

 

彼と会うことはそれから二度となかったのだ。

 

 

 

 

 

私は、1ヶ月後には、自分のことをとても思ってくれるパートナーができた。

私のことを思ってくれる。とても幸せな毎日だ。

 

 

年末、好きだった人と連絡をとって、彼にも新しい彼女ができたこと、教員採用試験の結果なども聞いた。

 

 

 

私は付き合わなくてよかったと思った。

好きで好きでどうしようもないくらいに想った相手は、付き合えないくらいがちょうど良いと思うことにした。思わずにはいられなかった。

 

 

 

でもいつも思う。

 

私があの日熱を出していなかったら、

私はそれからも彼と会い続けただろうか。

付き合えただろうか。

 

付き合えたとしたら、

私は幸せだろうか。

 

 

でも一つだけ、

彼と私の共通点である「仕事」

それに対する気持ちが、圧倒的に違った。

好きだった時は気づかなかった。

 

 

たとえ付き合えたとしても、

そのことでうまくいかないのではないだろうか。

そんな予感もする。

 

 

 

今でも彼は夢に出てくるし、人伝に彼の話も聞く。来年、もしかして同じ学校に赴任してくるかもしれないし、いつかは一緒に働くかもしれない。

 

 

彼が今年1年幸せに過ごせますように。

そしていつか、彼への気持ちが私の中で綺麗に昇華されますように。

 

 

恋の終わりなんて、いつも突然で曖昧で、

スパッと「はい終わり!」ってならないから、

人は永遠に恋について悩み続けるんだろう。

 

好きな人に会えなかった私は未だ、

あの夏の日で止まっている。周りだけが動いている。

 

いつか違った形で会えることを期待しながら、これからも過ごしていく。

 

切なくてきらきらした私の24歳の恋は、きつとこれからの人生で生きていく。

たとえ私がまだ止まったまま動き出せていなくても。

 

 

おわり。

 

p.s.

 

思ひつつぬればや人のみえつらむ

夢と知りせば さめざらましを

 

ずっと前の時代を生きていた小野小町でさえ、

同じような気持ちになったこと、あるんだよなあ。

いつか彼の夢も見なくなるだろうか。

 

この曲も、まるで私たちのようで、

エモッて気分になります。

会いたいわ

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理解してほしいのではなくて受け入れて欲しかった

 

私には、婚約寸前までいった彼氏がいた。

 

大学4年で付き合った時、

「4年で付き合ったってことは、考えてる」

「2年目まで頑張って、3年目で結婚かなあ」

と言われた。

 

私がいくら奨学金を借りているか話をしたり、お互い親に会わせたり、私たちは着々と未来について進めていた。

 

結局「元彼」ということになるのだけれど。

別れた理由をずっと、「すれ違った」と言って、多くは語らなかったけれど、初めて、思い出してみようと思う。

 

 

私は、不安障害を治療している。

私の症状の中でも強いのは

①広場恐怖

②疾病恐怖

③会食恐怖

である。そして、

対象喪失をなかなか乗り越えられない

のである。

 

①〜④を簡単に説明すると、

 

①長距離バスなど逃げられない空間や、人の多いところが怖い

②病気になるのが怖い、病気になるとすぐ「死」を考えてしまう

③外食や人とご飯を食べるのが苦手

④大切な人(ペットも)を失った悲しみを乗り越えられない

 

といったところだ。確か。

1番強かったのが、②の症状で、これは薬によって不安を抑えている。

ちなみに不安が強くて眠れないので、

①クエチアピン(セロクエル

②ロプラゼプ酸エチル(メイラックス

を処方してもらい、服薬している。

 

(かっこで囲んである名前のほうがわかりやすいと思う。どんな薬かは省略する。)

 

 

自分の症状、飲んでいる薬などを細かく説明した上で、私は付き合っていた。

彼も「それでも良い」と言ってくれていた。

 

付き合って少し経った頃、

「その病気って、いつ治る?」

と聞かれたことがある。

 

「生活習慣を整えて、自分の苦手だったことを少しずつ乗り越えていけば、症状は和らぐと思う。でも、「いつ治る」とは言い切れない。」

 

そう答えた。

 

「治す気は、あるんだよね?」

 

とも聞かれた。こんな病気、ないほうが良いに決まってる。治す気しかなかった。でも、風邪ではないから、聞かれたことにかなり困った記憶がある。

 

優しくて強い人だった。

優しく接してもらううちに、私は①②の症状がかなり改善し、2人で渋滞した道路を通ってディズニーランドまで行くことができたし、性格も丸くなった。

 

③の症状については、

「大丈夫。残しても食べるから。」

と言ってくれたので、安心して外食できるようになった。会食恐怖だからと言って、外食を避けることはしなかった。克服にかなり協力してくれた。

 

 

とにかく、私は彼と付き合っていた1年間で、症状がかなり改善し、性格まで優しくなった。自分で言うのもなんだけど。

付き合っている間、パニック症状を見せることはなかった。

 

大学時代のように会えなくなっても、週末ただ1日会える日に一緒に食事したり、教材研究したり楽しい時間を過ごした。

 

中学校教員1年目から担任や正顧問を持たせてもらっている彼は張り切っていたし、私も応援していた。一方私も、小2の担任として、奮闘していた。お互い切磋琢磨して、なかなかに良いカップルだったと思う!

 

付き合って1年、働き始めて2ヶ月が経つ頃、

私は体調を崩し始めた。もちろん学校には行っていたし、彼にも言わなかった。頑張っている彼に心配をかけたくなかったし、体調不良も一時的なものだと思っていた。

 

 

今でも忘れられない。6月のことだ。

定期的に通院している病院は、彼の家の近くにあった。向かっている最中のことだ。

 

ドクッドクッ

 

と、心臓が動いた。

 

手汗が出てきた。

 

呼吸が浅くなった。

 

夏なのに、足先が冷たくなってきた。

 

 

パニックを起こした。

 

過呼吸で、病院から1時間近くかかる自分の家に戻るのは危ない。

彼と、彼の母親に連絡して、彼の家で休ませてもらった。

 

会う予定ではなかったので、彼は忙しそうに自室にこもっていた。私は、彼のお母さんと、妹とリビングで話していた。

そこで初めて、仕事が辛い。

と、打ち明けた。

 

彼のお母さんは、たくさん話を聞いてくれた。彼の妹は、可愛いぬいぐるみを貸してくれた。

(今思えば、迷惑だったと思う。)

「お兄ちゃん(彼のこと)にも、辛いこと話したら?それとも、言えない?」

と彼のお母さんに聞かれた。

 

そういえば、過呼吸になっているところや、辛くなっているところを見せたことがなかった。

 

私のこと、少しでもわかってもらえる機会になると思って、私は彼の部屋へ向かった。手足の冷えと、手汗はおさまってなかった。

 

「辛いってこともわかったけど、突然来てお母さんも困るだろうから、そろそろ帰ろうよ。」

 

彼から言われた言葉は残酷だった。

 

 

「わかった。ごめんなさい。帰るね。」

 

 

私はそのまま、手足が冷たくて、呼吸が浅いまま、なんとか家に帰った。

運転中、涙が出てきた。

私の心はかなり単純らしい。泣いている時は、パニックがおさまっていた。

拭いても拭いても涙が出てきた。

 

家に着く頃、彼から、

「無事に着いた?」

と連絡が入っていた。

 

私は、まだまだ症状がおさまらなかったけど、何か返信して、既読になった。

 

 

 

それから何を送っても返信はなかった。

 

 

 

そこからは早かった。

私は学校でパニックを起こし、すぐに病休。何を言っても返信がなかった彼には告げずに地元に帰省した。

 

 

帰省したことを連絡すると、

『電話してもいい?』

と連絡が来た。

 

そこで私たちは別れることになった。

 

先週までとても仲が良かったのに。

未来の話もたくさんしたのに。

 

彼のことを責めるつもりはない。

別れたということは、縁がなかったのだ。今ならそう言える。

 

 

 

彼は私の病気を理解しようとしてくれていた。

どうにか治らないか、いろいろ試してくれた。

きっと、なかなか治らない私に対して不安だった。

 

 

私は優しさで、自分の病気の症状が落ち着くことを知った。彼が優しくしてくれたように、人にも優しくしようと思えた。

 

 

彼が私の病気を理解してくれようとしたことで、私は確かにたくさん救われたし、私自身が成長できた。

 

 

 

それでも、

彼が、不安障害の私を受け入れてくれたなら。

症状を見ても変わらず接してくれていたなら。

そのままの私を好きと言ってくれたなら、

私は病気があるままの私を愛せたかもしれない。

 

私は未だに、不安障害がある私を、

受け入れられていない。

 

 

 

 

 

 

p.s. 教員になろう、と誘ってくれた彼は、自分のステップアップのために教員をやめる。一方、別れてからの私は、仕事についてさらに勉強を始めた。

彼が、あの時私を誘ってくれなかったら、私はこんなに熱中する仕事に就けなかっただろう。

ある意味、彼は運命の人だった。そう思う。

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私は妹に手紙を出せなかった

中3の妹が入院したのは2月のことだ。

 

理由は

・不安障害

・うつ

摂食障害

 

15歳の妹は、入試を目前にして精神科病棟に入院することになった。

 

私の地元は、かなりの田舎で病院も少ない。

中2から不登校だった妹は、「愛着障害」と言われていた。

その時の主治医の先生のことは妹は信頼していたみたいだけど、すぐ関東に異動になった。

妹は、一つ頼れる人を失った。

 

愛着障害と言われた妹は、両親とおばあちゃんのいうことをまるで無視した。

妹は「愛着障害」に頼るしかなかった。

 

母親は、妹のいない家族LINEでずっと愚痴を言っていた。

妹の反抗的な態度、学校の対応、父親のこと。

私含めて姉3人は、「もっと、認めてあげて」と伝え続けた。

 

家族の中で、1番柔軟に考えられるのはおそらく父親だ。父親はいろいろ勉強をして、末の妹に接してきた。その結果、父親にだけ末の妹は口をきくようになった。

 

しかし、様々重なり、妹は特に摂食障害の治療のために精神科病棟に入院することになった。

 

「手紙を、書いてあげてくれ」

 

家族LINEで父親が姉の私たちに頼んだ。

みんな快諾した。

 

私も、何度も書いてみた。

私も不安障害と、摂食障害。教師でもある。愛着障害の勉強もした。絶対何か、力になれること書けるはず。伝えられるはず。

でも、何も書けなかった。

 

何を伝えたら良いのかわからなかった。

知識が邪魔をした。

「不安障害だから、りんちゃん(末の妹)の気持ちわかるよ」

違う。

「何も食べられない時の辛さわかるよ」

違う。

全部違う。私が思ってることは、妹のことを思いやった内容ではなくて、教師として関わっているような気がしてきた。担任でもないし、普段連絡とっているわけでもないから、教師でもない。

 

次女三女は手紙を書いたみたいだった。

可愛い封筒と、少しのプレゼントを家族LINEに載せていた。

私は

「忙しくて、手紙書けなかった。仕事落ち着いたら送るね。」

と逃げた。

 

 

私に知識がなかったら、妹に手紙をかけただろうか。

そうだとしても書けなかったかもしれない。

 

 

私は、ここ2年近く、母親や妹に介入することで疲れてしまった。

 

 

薄情な姉だと思われたかもしれない。実際に薄情かもしれない。

 

きっと末の妹が元気になったとしても、私の後悔は続くだろう。

 

私は妹に手紙を出せなかった。

 

私が何を思っていたとしても、妹に気持ちを伝えることはできなかった。

 

一時退院をして、クロと楽しそうに触れ合う妹の写真を見て安堵した。

 

 

 

 

手紙、送れなくてごめんね。

りんちゃん、また一緒に買い物に行こうね。